文化・芸術

2017年6月25日 (日)

(自分メモ)ヒューマンエラー

昨日の勤務で細かいミスを4つしてしまいました。
そのミスとは

①建物への入場者数をカウンターで計測しており、毎時ジャストで確認して記入することになっているがそれを忘れた
②①を指摘されたとき、一瞬戸惑い、自分のカウンターではなく、入場者数記入表を確認しようとしてしまった
③20分おきに温度計の数値を確認し記入することになっていて、また、それ以外でも
明らかに温度に大きな変化があるときは数値を記入することになっているが、それを忘れた
④①の作業を引き継ぐときに、今目の前の入場者を計測済みかどうかという伝達を忘れた

2012年5月10日 (木)

山月記のなぞ最終解答

以前書いた記事を一部修正しての投稿です
前回はこの記事を書くに当たっての事前説明に手間取り、とてもかたぐるしい口調になってしまいました。
その部分を変えているだけで、後半の本論部分は変わっておりません。


さて今回、タイトルを最終解答とした理由ですが、百花繚乱の説がある中で、私のこの説こそ「山月記のなぞ」に対する解答であるという自信の意味を込めています。


これまであまたの論がこの問題について語られてきていますが、多分どの論を出した方も、自分の論を解答とまでの自信を持って出してきた方はいないのではないかと思います。こういう見方、解釈ができるという程度の一つの私見として出してきているに過ぎないのではないかと思います。確かに中には、ユニークな視点、感心させられる視点からの論もありますが、そのような論にしても、その研究者の知性の高さを感じることはあっても、「山月記のなぞ」である「非常に微妙な点において欠けるところとは何なのか」という問いにまっすぐ答えてまさしくそうだとひざを打って納得する解答ではありませんでした。


私について言えば、私がこの解答を得たとき、解ききったという手ごたえがあり、この得た解答で、すべてのつじつまが合うという気持ちになりました。
例を挙げれば、芥川が森鴎外の作品に感じ、芥川の森鴎外に対する評論を知る前から感じていた「何か足りない感じ」の理由も納得がいきました。
悟浄出世、悟浄歎異という作品では迷い(あるいは殻と言ってもいいかも知れない)から抜け出て前に向かっていくものの姿が描かれていますが、これこそ「非常に微妙な点において欠けるところ」を生じさせているものを克服してきた者の姿であると確信できます。


岩波の文庫には、山月記とともに、悟浄出世、悟浄歎異も収録されています。

ここから本論


さてこのなぞがなぜいまだになぞのままなのか
それはこの作品中に書かれていないからに他なりません
かかれていないものはわからない、それをあれこれいってみても無駄なことという過去の論文もありました

実はこの作品中には30篇の詩の内容については言及はありませんが、
李徴がお笑い草ついでに虎になった自分の今の心境を詩に詠んでみようと詠んだ詩については山月記本文中に記載されており、唯一のヒントとなっています。

私の推理過程(推理とは言いたくないですが)としては、

1.文中に書かれていない30の詩には、どこか微妙に欠けている点がある
2.それは文中の詩にもあるはずである
3.文中の詩には虎になった理由が述べられていない
4.ここで李徴が自我の醜さを赤裸々に告白している山月記本文と、それが書かれていない文中の詩を対比構造で考えてみる。
5.文中の詩は仮面的表面的あるいは客観的傍観者的記述であり、対して山月記本文にある李徴の告白は真実の吐露である
6.文中の詩には激しく心揺さぶられるものがなく、李朝の告白にはそれがある
7.李徴の告白(つまり山月記本文)は一流の作品となりうるが文中の詩では人々の心を揺さぶるものが欠けていて一流の作品にはなりえない。
8.このことが文中にない30篇の詩についても当てはまるだろうか?文中の詩1篇の詩がそうだということと、30篇の詩、李徴の詩全般について言えるかということの間の飛躍を埋めなくてはならない。文中の詩では、虎になった自分の身について語るうえで、仮面的表面的となっていることが言えるが、30篇の詩がすべて自分の身の上を語る詩であるわけではないだろう。
9.ここからは心理学的知識を読み解く上での介助知識として使用する。実は知識などではなく、私の自己分析から得たもの実体験と重ね合わせての感得によるものだということを述べておきたい。本に書かれているような知識も、それは本で学ばなければ得られないものではなく、最初は誰かが発見したものでありそれは誰にでも他人から教えられることなく、自己の中に再発見できるものなのだということである。
さてその知識とは、臆病な自尊心しか持ち得ない人間、つまり他者との比較において、他者に優越することを最大の価値とする人間にはとらえられない感性というものが存在するということである。
例えば自尊心と聞いてなにをイメージするか?という問いに対してある研究者の論文では「そもそも自尊心とは自己と他者の関係における一種の自己顕示であり、自己存在の主張であろう。とすればこれは本来的に自己本位であり、自己中心的であって、必然的に他者の軽視からさらに否定につながるものである」と書かれていた。
10.思考の枠というか心の枠というのは恐ろしい。なぜならその人の、思考や感性を狭めてしまい、世界をあるがままに見られなくしてしまうからである。私も以前そうであった。他人の努力に対してそれが低いレベルのものであれば内心くだらないと思いつつ世間体で心にもないほめ言葉を語るような人間であった。今なら、ほめるというのではなく、その人自身の成長やそのとき感じる達成感のようなものに興味を感じ、
詳しく話を聞き共感の糸口を探ったり、何か自分に置き換えてのヒントを得ようとするだろうと思う。残念ながら今でも私はその種の何かを達成した時の感動や喜びについて感じる能力について弱いのではないかと思っている。何かに打ち込み、たとえ失敗して何も得られなくともそれでいい、自分は全力を尽くした、やり遂げたというような経験、が足りないせいなのかもしれない。しかし以前のように、カッコばかりつけている批評家然とした自分からは多少抜け出せるようになり、その結果得られたのは、他人との比較などでは揺るがない、自尊心であった。
11.李徴が臆病な自尊心を持つがゆえに得られなかった感性とは?例えば、何かを達成したときの感動、自分をほめたいような気持ち。についても、その人のすがすがしい表情を見てもそれに気づけなかったかもしれない。また、農作物を育て、収穫するときに感じる喜び。なども感じ取れないだろうし、自然の動物や、植物が生きていることに対して、尊いと感じることもできないだろう。
12.山月記本文中にこんな記述がある「まったく何事もわれわれにはわからぬ。理由もわからずに押し付けられたものをおとなしく受け取って理由もわからずに生きていくのがわれわれ生き物の定めだ」自分に都合の良い運命論をこしらえてか、どこかから引っ張ってきて当てはめているに過ぎないように私には思える。実感や経験の伴わないこしらえた文章というのはあるコツというか解析方法でわかる。この本文中の記述について思うのは、おとなしく受け取ってなどということが果たしてあるのか、少なくとも人間なら逆らい、戦い、そしてあきらめ、しかしあきらめきれずに祈り、そして受け入れる。受け入れたときに、希望が見え、理由がわかり人生に意味が生じる。そのようなもっと動的なものであるはずだということである。
13.ここまですでに言い尽くしていると思うが、結論を書かなければならないとしたら
「非常に微妙な点において欠けるところ」とは何なのか
の答えは、、、臆病な自尊心を持つために、共感能力を欠く李徴の心ということになります。そういった心では、とらえきれない人間の性情、あるいは価値観があり、描こうとしても表面的になり読者に微妙な違和感を感じさせ、人々の共感を得られない、心を揺さぶられないということなのだと思います。 

2011年5月 8日 (日)

ヤフー知恵袋の質問に答えました「山月記についての質問」

ヤフー知恵袋に山月記についての質問が寄せられており、
回答を投稿しました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1161655911

内容は以下です。

山月記についての質問なのですが・・・

                  catcat5371さん       

山月記についての質問なのですが・・・

「山月記」の文中の「何処か(非常に微妙な点において)欠けている所」とは、どんなことか。文中より分析して私見を述べよ。
という問題なのですが、なかなか国語力がない自分には書けません><
かなり長い文章で書かなければならないので、よかったら詳しくお願いします<(_ _)>
お忙しい中だと思いますがよろしくお願いします><

                  wakuwaku09sanさん       

こんにちは
山月記のこの問題は、この作品が書かれてから、ずっと取りざたされており
学者の間でも解決を見ていない問題です

ですので、国語力どうこうで解決できる問題ではありません。
もし課題の提出として私見を述べるとしたら、幾つかある学者の説を並べて、私はこの説が正しいと思うといった書き方が妥当かと思います。

この方法は、大学で国文学を専攻して研究論文を書く場合にとられる方法でもあります。


現在に至っても未解決のこの問題について、私はこれまでにないまったく新しい説を唱えています。もし気に入ってもらえれば、私の説も紹介していただければ幸いです。

これまでの説と大きく異なるのは、浅い社会常識から推測する従来の説ではなく、あくまで本文の分析の上に立った論であること。
(具体的に言うと、本文に出てくるひとつの漢詩に足りないものは何かということを解決の糸口にしている)
一方で、心理学の知識を補助知識として利用することで、そのひとつの漢詩に足りないものを生み出し、李徴のほかのすべての詩にも影響を与える、ある要因(つまりこれこそが欠けるところなのです)について解き明かすという方法をとっていることです。
ちなみに心理学の知識といっても、心理学の本を読んでいなければ得られないようなものではなく、自己を深く妥協なく見つめることで誰にでも得られる見識、洞察です。

さて具体的な論については、以下を参照してください。
http://wakusan.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-8b78.html

上で、「国語力どうこうで解決できる問題ではありません。」と書いたのは、少し失礼だったかと思います。
申し訳ありません。

さらに補足ですが、高校の授業での課題であれば、大学の研究論文のような体裁で行うことよりも、過去の論など参考にせず自分で思うことを書いて来いという意図もあるかと思います。
私としては、自分で書けないから、過去の他人の論を模倣するというのはおすすめできません。
であれば過去の論を引用しながら、自分の意見を付け加えて書くという方法が、正当であり質問者の困っている状態を救うことにもなりお勧めする次第です。

そのための参考資料としてネットで見つけた、研究論文を以下に載せておきます

http://repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/458/1/AN1030...

2011年3月22日 (火)

国際結婚をした友人の結婚式で

中国人と結婚した友人(女性)の結婚式での新郎の挨拶がとても日本人の男には言えないような内容で、驚いた
「世界一美しい女性である、私の花嫁○○のためにお集まりいただき~」
「世界には30億もの男性がいる中で、その中のたった一人に私が選ばれたことは~」
というようなフレーズがありました。

確かそのとき新郎は中国語か、英語で話していたような、3年ほど前のことでよく覚えていないのですが、

今改めて考えて見ますと、元々そういう文化なのかなという気もしますし、もしかしたら何回か前の記事で書いたように、言語体系の影響もあるのかと思いました。もしも、英語なら、上の文章は、最初の文は関係代名詞を使った文と思われますし、2番目の文は最上級を使って表現できると思います。少なくとも、日本語の中で表現するより垣根は低いのかなと思います。

ちなみにこの挨拶をしたときの新郎は何のテレもなく堂々としていて、さまになっていた。

2011年3月18日 (金)

ダイヤモンドの一ページという以前の記事がありましたが

なんかブログに書くこと思いつかない、ひらめかないんだよなあ
とつぶやき広場でつぶやいていたんですが、

過去の自分の日記とか、メモとかを引っ張り出して書けばいいのではないかと思ったのです
元々以前の日記を読み返してみたいなあとずっと思っていたのですが
なんとなくめんどくさいと思っていたのですが
これをねたにブログを書けるということになれば、いっちょうにせきになりやる気が出てきます

以前書いたダイヤモンドの一ページという記事のなかで同じことを書いています
何か面倒なことがあるときは、そこにもうひとつプラスの効果が得られるように工夫すればよい。そうすれば、その行動単体の持つ4要素(現状のメリットデメリット、将来のメリットデメリット)は変わらないにしても、そこに将来のメリットだけを加えることになり行動の動機が高まる。
というわけです。

ちなみにダイヤモンド(くらい価値がある)の一ページが載っているのは、下の本です。

2011年3月13日 (日)

山月記のなぞについて

山月記といえば高校の教科書に必ず載る文学作品ではないでしょうか
私はこの作品について論文を書いたことがあり、そのとき書ききれなかった部分についていつか書きたいと思ってきました。

ブログに書くに当たっては、場が適切だろうかと少し疑問に思う気持ちもありましたが、どうしても書きたいことであり、また、このブログの大きなテーマである、心にも関係することなのでどうぞ読んでみてください。

私が書いた論文というのは、私が筑波大学と上智大学の大学院修士課程入学の受験に際して提出した論文であり、出身が文学部国文学科だった私は、考えあぐねた挙句、文学作品である山月記の中にの主人公「李徴」の心理を分析するという内容の論文を書いたのです。

山月記では才能に恵まれた李徴が詩人を目指すもかなわず発狂して虎となってしまう。その1年後友人である袁参ががその虎と出会って虎である李徴の告白を聞きます。そして別れ際に、自分が心を狂わしてまで取り組んだ詩を後代に残したいとの思いからかつてつくった30篇の詩を読み袁参はその詩を聞き部下に書き取らせた。
しかし袁参はその詩を聞きながら、作者の非凡な才能を感じながらも、第一流の作品となるにはどこか非常に微妙な点において欠けるところがあるような気がすると感じていた。

この非常に微妙な点において欠けるところとは何なのか

これが山月記におけるなぞなのです

李陵/山月記改版

李陵/山月記改版
価格:380円(税込、送料別)

このなぞについて私の結論を書こうということです
さてこのなぞがなぜいまだになぞのままなのか
それはこの作品中に書かれていないからに他なりません
かかれていないものはわからない、それをあれこれいってみても無駄なことという過去の論文もありました

実はこの作品中には30篇の詩の内容については言及はありませんが、
李徴がお笑い草ついでに虎になった自分の今の心境を詩に詠んでみようと詠んだ詩については山月記本文中に記載されており、唯一のヒントとなっています。

私の推理過程(推理とは言いたくないですが)としては、

  1. 文中に書かれていない30の詩には、どこか微妙に欠けている点がある
  2. それは文中の詩にもあるはずである
  3. 文中の詩には虎になった理由が述べられていない
  4. ここで李徴が自我の醜さを赤裸々に告白している山月記本文と、それが書かれていない文中の詩を対比構造で考えてみる。
  5. 文中の詩は仮面的表面的あるいは客観的傍観者的記述であり、対して山月記本文にある李徴の告白は真実の吐露である
  6. 文中の詩には激しく心揺さぶられるものがなく、李朝の告白にはそれがある
  7. 李徴の告白(つまり山月記本文)は一流の作品となりうるが文中の詩では人々の心を揺さぶるものが欠けていて一流の作品にはなりえない。
  8. このことが文中にない30篇の詩についても当てはまるだろうか?文中の詩1篇の詩がそうだということと、30篇の詩、李徴の詩全般について言えるかということの間の飛躍を埋めなくてはならない。文中の詩では、虎になった自分の身について語るうえで、仮面的表面的となっていることが言えるが、30篇の詩がすべて自分の身の上を語る詩であるわけではないだろう。
  9. ここからは心理学的知識を読み解く上での介助知識として使用する。実は知識などではなく、私の自己分析から得たもの実体験と重ね合わせての感得によるものだということを述べておきたい。本に書かれているような知識も、それは本で学ばなければ得られないものではなく、最初は誰かが発見したものでありそれは誰にでも他人から教えられることなく、自己の中に再発見できるものなのだということである。
    さてその知識とは、臆病な自尊心しか持ち得ない人間、つまり他者との比較において、他者に優越することを最大の価値とする人間にはとらえられない感性というものが存在するということである。
    例えば自尊心と聞いてなにをイメージするか?という問いに対してある研究者の論文では「そもそも自尊心とは自己と他者の関係における一種の自己顕示であり、自己存在の主張であろう。とすればこれは本来的に自己本位であり、自己中心的であって、必然的に他者の軽視からさらに否定につながるものである」と書かれていた。
  10. 思考の枠というか心の枠というのは恐ろしい。なぜならその人の、思考や感性を狭めてしまい、世界をあるがままに見られなくしてしまうからである。私も以前そうであった。他人の努力に対してそれが低いレベルのものであれば内心くだらないと思いつつ世間体で心にもないほめ言葉を語るような人間であった。今なら、ほめるというのではなく、その人自身の成長やそのとき感じる達成感のようなものに興味を感じ、
    詳しく話を聞き共感の糸口を探ったり、何か自分に置き換えてのヒントを得ようとするだろうと思う。残念ながら今でも私はその種の何かを達成した時の感動や喜びについて感じる能力について弱いのではないかと思っている。何かに打ち込み、たとえ失敗して何も得られなくともそれでいい、自分は全力を尽くした、やり遂げたというような経験、が足りないせいなのかもしれない。しかし以前のように、カッコばかりつけている批評家然とした自分からは多少抜け出せるようになり、その結果得られたのは、他人との比較などでは揺るがない、自尊心であった。
  11. 李徴が臆病な自尊心を持つがゆえに得られなかった感性とは?例えば、何かを達成したときの感動、自分をほめたいような気持ち。についても、その人のすがすがしい表情を見てもそれに気づけなかったかもしれない。また、農作物を育て、収穫するときに感じる喜び。なども感じ取れないだろうし、自然の動物や、植物が生きていることに対して、尊いと感じることもできないだろう。
  12. 山月記本文中にこんな記述がある「まったく何事もわれわれにはわからぬ。理由もわからずに押し付けられたものをおとなしく受け取って理由もわからずに生きていくのがわれわれ生き物の定めだ」自分に都合の良い運命論をこしらえてか、どこかから引っ張ってきて当てはめているに過ぎないように私には思える。実感や経験の伴わないこしらえた文章というのはあるコツというか解析方法でわかる。この本文中の記述について思うのは、おとなしく受け取ってなどということが果たしてあるのか、少なくとも人間なら逆らい、戦い、そしてあきらめ、しかしあきらめきれずに祈り、そして受け入れる。受け入れたときに、希望が見え、理由がわかり人生に意味が生じる。そのようなもっと動的なものであるはずだということである。
  13. ここまですでに言い尽くしていると思うが、結論を書かなければならないとしたら
    「非常に微妙な点において欠けるところ」とは何なのか
    の答えは、、、臆病な自尊心を持つために、共感能力を欠く李徴の心ということになります。そういった心ではとらえきれない人間の性情、あるいは価値観があり、描こうとしても表面的になり読者に微妙な違和感を感じさせ、人々の共感を得られない、心を揺さぶられないということなのだと思います。 
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