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2012年5月10日 (木)

山月記のなぞ最終解答

以前書いた記事を一部修正しての投稿です
前回はこの記事を書くに当たっての事前説明に手間取り、とてもかたぐるしい口調になってしまいました。
その部分を変えているだけで、後半の本論部分は変わっておりません。


さて今回、タイトルを最終解答とした理由ですが、百花繚乱の説がある中で、私のこの説こそ「山月記のなぞ」に対する解答であるという自信の意味を込めています。


これまであまたの論がこの問題について語られてきていますが、多分どの論を出した方も、自分の論を解答とまでの自信を持って出してきた方はいないのではないかと思います。こういう見方、解釈ができるという程度の一つの私見として出してきているに過ぎないのではないかと思います。確かに中には、ユニークな視点、感心させられる視点からの論もありますが、そのような論にしても、その研究者の知性の高さを感じることはあっても、「山月記のなぞ」である「非常に微妙な点において欠けるところとは何なのか」という問いにまっすぐ答えてまさしくそうだとひざを打って納得する解答ではありませんでした。


私について言えば、私がこの解答を得たとき、解ききったという手ごたえがあり、この得た解答で、すべてのつじつまが合うという気持ちになりました。
例を挙げれば、芥川が森鴎外の作品に感じ、芥川の森鴎外に対する評論を知る前から感じていた「何か足りない感じ」の理由も納得がいきました。
悟浄出世、悟浄歎異という作品では迷い(あるいは殻と言ってもいいかも知れない)から抜け出て前に向かっていくものの姿が描かれていますが、これこそ「非常に微妙な点において欠けるところ」を生じさせているものを克服してきた者の姿であると確信できます。


岩波の文庫には、山月記とともに、悟浄出世、悟浄歎異も収録されています。

ここから本論


さてこのなぞがなぜいまだになぞのままなのか
それはこの作品中に書かれていないからに他なりません
かかれていないものはわからない、それをあれこれいってみても無駄なことという過去の論文もありました

実はこの作品中には30篇の詩の内容については言及はありませんが、
李徴がお笑い草ついでに虎になった自分の今の心境を詩に詠んでみようと詠んだ詩については山月記本文中に記載されており、唯一のヒントとなっています。

私の推理過程(推理とは言いたくないですが)としては、

1.文中に書かれていない30の詩には、どこか微妙に欠けている点がある
2.それは文中の詩にもあるはずである
3.文中の詩には虎になった理由が述べられていない
4.ここで李徴が自我の醜さを赤裸々に告白している山月記本文と、それが書かれていない文中の詩を対比構造で考えてみる。
5.文中の詩は仮面的表面的あるいは客観的傍観者的記述であり、対して山月記本文にある李徴の告白は真実の吐露である
6.文中の詩には激しく心揺さぶられるものがなく、李朝の告白にはそれがある
7.李徴の告白(つまり山月記本文)は一流の作品となりうるが文中の詩では人々の心を揺さぶるものが欠けていて一流の作品にはなりえない。
8.このことが文中にない30篇の詩についても当てはまるだろうか?文中の詩1篇の詩がそうだということと、30篇の詩、李徴の詩全般について言えるかということの間の飛躍を埋めなくてはならない。文中の詩では、虎になった自分の身について語るうえで、仮面的表面的となっていることが言えるが、30篇の詩がすべて自分の身の上を語る詩であるわけではないだろう。
9.ここからは心理学的知識を読み解く上での介助知識として使用する。実は知識などではなく、私の自己分析から得たもの実体験と重ね合わせての感得によるものだということを述べておきたい。本に書かれているような知識も、それは本で学ばなければ得られないものではなく、最初は誰かが発見したものでありそれは誰にでも他人から教えられることなく、自己の中に再発見できるものなのだということである。
さてその知識とは、臆病な自尊心しか持ち得ない人間、つまり他者との比較において、他者に優越することを最大の価値とする人間にはとらえられない感性というものが存在するということである。
例えば自尊心と聞いてなにをイメージするか?という問いに対してある研究者の論文では「そもそも自尊心とは自己と他者の関係における一種の自己顕示であり、自己存在の主張であろう。とすればこれは本来的に自己本位であり、自己中心的であって、必然的に他者の軽視からさらに否定につながるものである」と書かれていた。
10.思考の枠というか心の枠というのは恐ろしい。なぜならその人の、思考や感性を狭めてしまい、世界をあるがままに見られなくしてしまうからである。私も以前そうであった。他人の努力に対してそれが低いレベルのものであれば内心くだらないと思いつつ世間体で心にもないほめ言葉を語るような人間であった。今なら、ほめるというのではなく、その人自身の成長やそのとき感じる達成感のようなものに興味を感じ、
詳しく話を聞き共感の糸口を探ったり、何か自分に置き換えてのヒントを得ようとするだろうと思う。残念ながら今でも私はその種の何かを達成した時の感動や喜びについて感じる能力について弱いのではないかと思っている。何かに打ち込み、たとえ失敗して何も得られなくともそれでいい、自分は全力を尽くした、やり遂げたというような経験、が足りないせいなのかもしれない。しかし以前のように、カッコばかりつけている批評家然とした自分からは多少抜け出せるようになり、その結果得られたのは、他人との比較などでは揺るがない、自尊心であった。
11.李徴が臆病な自尊心を持つがゆえに得られなかった感性とは?例えば、何かを達成したときの感動、自分をほめたいような気持ち。についても、その人のすがすがしい表情を見てもそれに気づけなかったかもしれない。また、農作物を育て、収穫するときに感じる喜び。なども感じ取れないだろうし、自然の動物や、植物が生きていることに対して、尊いと感じることもできないだろう。
12.山月記本文中にこんな記述がある「まったく何事もわれわれにはわからぬ。理由もわからずに押し付けられたものをおとなしく受け取って理由もわからずに生きていくのがわれわれ生き物の定めだ」自分に都合の良い運命論をこしらえてか、どこかから引っ張ってきて当てはめているに過ぎないように私には思える。実感や経験の伴わないこしらえた文章というのはあるコツというか解析方法でわかる。この本文中の記述について思うのは、おとなしく受け取ってなどということが果たしてあるのか、少なくとも人間なら逆らい、戦い、そしてあきらめ、しかしあきらめきれずに祈り、そして受け入れる。受け入れたときに、希望が見え、理由がわかり人生に意味が生じる。そのようなもっと動的なものであるはずだということである。
13.ここまですでに言い尽くしていると思うが、結論を書かなければならないとしたら
「非常に微妙な点において欠けるところ」とは何なのか
の答えは、、、臆病な自尊心を持つために、共感能力を欠く李徴の心ということになります。そういった心では、とらえきれない人間の性情、あるいは価値観があり、描こうとしても表面的になり読者に微妙な違和感を感じさせ、人々の共感を得られない、心を揺さぶられないということなのだと思います。 

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